Magazines マガジン

-
TeamWISH
-
サッカー
-
取材記事
My Turning Point~広島アスリートが語る転機の物語~
【第22回】サンフレッチェ広島・青山敏弘コーチ
新たなスポーツの楽しみ方を提供する、広島横断型スポーツ応援プロジェクト、通称『Team WISH』。プロ野球やJリーグをはじめ、数多くのトップスポーツチームを有する広島県ならではの取り組みとして、日々、各チーム・選手の魅力を発信しています。
本連載では、Team WISHに参加する全25チームの選手・関係者に、「自身にとっての『ターニングポイント』とは」をインタビュー。
競技や人との出会い、試合やできごと、忘れられない「あの日」、誰かの言葉……競技人生に影響を与えた転機をめぐる物語から、選手の新たな一面にフォーカスしていきます。

連載第22回目は、J1リーグ・サンフレッチェ広島から青山敏弘コーチが登場です。トップチーム加入から21年間広島一筋にプレーし、2024シーズン、惜しまれながら現役を引退。引退後はトップチームのコーチに就任し、現在は指導者の立場でチームに貢献されています。いまなお多くのファン・サポーターに愛される青山コーチが、現役生活のなかで迎えたターニングポイントを語ります。
◆議論を呼んだ『幻のゴール』。関わった人々のサッカー人生を背負って戦ってきた
―今回のインタビューでは、青山コーチがこれまでに体験されたターニングポイントについてお伺いしていきたいと思います。早速ですが、青山コーチのサッカー人生において、心に残っている試合や出来事をお伺いできますでしょうか。
「まずは作陽高校時代の『幻のゴール』ですね。僕は当時高校2年生だったのですが、あのゴールは僕自身だけでなく、周りの人たちへの影響も非常に大きかったと思っています」
―2002年の、全国高校サッカー選手権大会の岡山県予選ですね。作陽高校と水島工高校が対戦した決勝戦で青山コーチが決勝ゴールを決めたものの、ノーゴールとして取り消しになりました。PK戦の末に作陽高校は敗れましたが、試合後、あのノーゴール判定は誤審だったとして大きな話題になりました。

「あの試合は3年生の先輩たちにとっては最後の試合でした。その試合で、自分のゴールが入ったか、入らなかったかという部分が大きな話題になってしまいました。先輩だけでなく、相手の高校の選手たちにとっても、関わったすべての人にとっても大きな影響を与えた出来事だったと思います。当時は周りの大人のみなさんがいろいろと動いてくれて、なんとか自分たちを守ってくれようとしたことも覚えています。自分の一つのシュートで、何か大きく歯車が動いてしまった。そう感じたのがあの『幻のゴール』でした」
―あのゴールへの思いは、プロとしてプレーするなかでもずっと残り続けていたのでしょうか。

「そうですね。すごく大袈裟かもしれませんが、あの試合、あのゴールに関わったみなさんのサッカー人生を、僕が代表して戦わせてもらっている。勝手にそんな風に思っていました。自分の土台というか、あの試合、あのゴールで、自分のサッカー人生が大きく動いたと思っています。Jリーグでは試合前に掲示されるメンバー表に自分の前所属チームが記載されるのですが、僕は高校卒業後にサンフレッチェに加入しましたから、それが『作陽高校』なんです。いつもそれを見て、自分の原点というか、ルーツを思い出しながら試合の準備をしていました。」
◆「これ以上頑張らなくて良いからね」。張り詰めた気持ちを緩めてくれた監督の一言
―プロ入り後のターニングポイントはどのような場面、出会いでしょうか?
「森保一監督との出会いですね。プロ3年目の2006年にミハイロ・ペトロヴィッチ監督が広島に来て、5年半、ペトロヴィッチ監督のもとでプレーさせてもらいました。その期間は自分がすごく成長している実感もあったのですが、それに伴って、体がついていけずケガをしてしまったこともありました。それに対して、すごくもどかしい思いがありました。」
―青山コーチはプロ2年目の2005年、そして2007年と2009年にも大きなケガを経験されましたが、ペトロヴィッチ監督時代はチームの主力として活躍されましたね。

「そうですね。2012年に森保監督が広島の監督に就任されたのですが、最初に言われたことは『もうこれ以上頑張らなくて良いからね』ということでした。もう十分に頑張っているから、これ以上無理はしなくても良いと声をかけてくれたんです。それまでは体を鍛えることばかりやっていたのですが、森保監督は『鍛えるだけではなくて、体を労ってあげよう』と話してくれました。その頃は体だけでなく、精神的にも常に追い詰められているような部分があったので、そこを少し緩めてくれたのが森保監督でした。もちろんやるべき時にはやるのですが、それ以外のところまで頑張りすぎなくて良いんだよという森保監督の言葉は、自分の中に少しゆとりを持たせてくれました。」
―ご自身を鍛え、追い込んできていたわけですが、森保監督の言葉はそれまでの青山コーチのスタイルとは真逆の言葉のように感じます。最初にその言葉をかけられた時は、率直にどのような思いでしたか。

「『見てくれているんだな』と思いました。僕が体も気持ちも追い詰められているという状況を、見透かされたような気持ちでした。それと同時に、『この人は、選手の気持ちもわかっているんだ』とも思いました。森保監督の言葉のおかげでケガも減りましたし、本当に助けられたと思っています。試合にすべてをぶつけることができる過ごし方ができるようになりましたし、シーズンを通して試合に出ることもできるようになりました。それが最終的に結果にもつながってくれたと感じているので、森保監督の一言は、僕を助けてくれて、なおかつ成長させてくれたと思っています。」
―そこからトレーニングやプレーに対する考え方も変化されたのですね。
「2012年当時、森保監督からは開幕前に『アオには、いてもらわなきゃ困るから』と言ってもらえて、自分を求めてくれている、本当に必要としてくれているんだということが伝わってきました。だからこそ、責任感もより強くなりましたし、準備への意識もより高くなっていったんだと思います。」
―青山コーチは現在トップチームコーチとして指導者の道を歩まれています。森保監督の指導法を思い起こすことはあるのでしょうか。

「森保監督は、いつも選手に寄り添ってくれていました。森保監督自身も選手として長年プレーされていたので、選手の思いも痛いほどわかったのだと思います。一緒に戦ってくれているという感覚がありましたね。僕自身、コーチになってまだそこまで日が経っているわけではありませんから、まだ選手目線の方が強いですし、選手と目線や考え方、視野というのは同じでありたいと思っています。ここからコーチとして経験を積むなかで、それがどんな風に変化していくのかということは、僕自身も楽しみな部分でもあります。ただ今は、森保監督だけでなく、これまで出会った監督のみなさんの影響も受けているこの『今の僕の感覚』を大切にしたいですし、選手にも伝えて行きたいと考えています。」
青山敏弘コーチの【My Turning Point】
☆ 高校サッカー選手権大会岡山県予選、決勝戦の『幻のゴール』
☆ 追い詰められた体と気持ちにゆとりを持たせてくれた森保一監督の一言

青山敏弘(あおやま としひろ)
Toshihiro Aoyama
1986年2月22日、岡山県出身。
岡山作陽高校から2004年に広島に加入。2006年にミハイロ・ペトロヴィッチが監督に就任すると出場機会をつかみ、主にボランチとして出場を重ねる。2008年からは森﨑和幸(現・サンフレッチェ広島C.R.M)と2ボランチを組み2012年には初のJ1優勝に大きく貢献した。現役時代は度重なる故障にも苦しんだものの、2024年の引退までにJ1通算444試合に出場。これはクラブのJ1最多出場記録となっている。2025シーズンよりトップチームコーチに就任。
◆チーム情報/サンフレッチェ広島
広島を本拠地するプロサッカークラブ。1992年にJリーグに加盟したオリジナル10の1つ。クラブ名の「サンフレッチェ」は日本語の『三』とイタリア語の「フレッチェ(矢)」を合わせた造語で、広島ゆかりの戦国武将・毛利元就の「三本の矢」の故事にちなんでいる。また、ユースチームでの育成にも力を入れており、川辺駿、山﨑大地、越道草太、中島洋太朗ら県内出身選手も多く所属。国内外に多数のJリーガーを輩出している。