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取材記事
My Turning Point~広島アスリートが語る転機の物語~
【第13回】A-pfeile広島・後藤将起選手
新たなスポーツの楽しみ方を提供する、広島横断型スポーツ応援プロジェクト、通称『Team WISH』。プロ野球やJリーグをはじめ、数多くのトップスポーツチームを有する広島県ならではの取り組みとして、日々、各チーム・選手の魅力を発信している。
本連載では、Team WISHに参加する全25チームの選手・関係者に、「自身にとっての『ターニングポイント』とは」をインタビュー。
競技や人との出会い、試合やできごと、忘れられない「あの日」、誰かの言葉……競技人生に影響を与えた転機をめぐる物語から、選手の新たな一面にフォーカスしていく。
連載13回目の今回は、広島を拠点に活動するインクルーシブフットボールクラブ・A-pfeile(アフィーレ)広島から、ブラインドサッカー選手の後藤将起(ごとう まさき)さんが登場。ゴールキーパー以外の選手は全盲で、アイマスクを装着し、音の出るボールを使ってプレーする『ブラインドサッカー』で、日本代表経験も持つ選手だ。31歳で突然視力を失い、一度は人生を悲観したこともあったという後藤選手が、再びアスリートの道を歩み始めたターニングポイントについて話を聞いた。
◆ドリブルもシュートもできる。でもボールと自分の場所がわからなかった競技スタート当初
―後藤選手は、もともとサッカーをプレーされていたと聞きました。競技を始めたきっかけは?
「一番最初にサッカーを始めたのは、小学2年生の時です。ちょうどJリーグが開幕した頃で、兄と弟と一緒に始めたんです。そこから地域のクラブチームにも入り、中学3年生の時には全国大会にも出場しました。当時は『Jリーガーになりたい』という夢もあったのですが、一方で『スポーツに関わる仕事がしたい』という思いもあり、高校卒業後は理学療法士を目指す大学に進むことにしました」
―後藤選手は大人になってから視力を失われたとのことですが、経緯を伺っても構いませんか?
「はい。理学療法士として働いていた31歳の時、晴れているのに周りが暗く感じて、おかしいなと気づきました。その日の夜には自分で車を運転できないほどになりましたが、病院でも『こんなに急に見えなくなる例は聞いたことがない』と言われたんです。薬で視神経の炎症を抑えれば元に戻るだろうと言われたので、その時点ではあまり悲観的になることはありませんでした。ただ、何日経っても良くならなくて……。結局、そのまま視力が戻ることはありませんでした。仕事も辞め、1年ほどは家に引きこもるような生活をしていましたが、自立訓練施設に行くようになってからはいろいろなことができるようになりましたね」
―自立訓練施設に通い始めたのは、何かきっかけがあったのでしょうか。
「我が家は子どもが三人いるのですが、子どもたちが小学校に上がって家族紹介の作文を書くことになった時に、ずっと家に引きこもっている僕のことをどんな風に書くんだろう……と思ったんです。それをきっかけに、子どもが小学校に上がるまでには何か資格を取って仕事を始めようと、まずは自立訓練施設で歩行訓練や点字の練習、パソコンの使い方を習い始めました。その後は広島中央特別支援学校で3年間学び、はりきゅうあんまマッサージの資格も取得しました。ブライドサッカーと出会ったのもその学校です。もともと体を動かすことは好きでしたから、サッカーの他にもいくつかのブラインドスポーツを体験してみましたが、小、中、高校でサッカーをしていた分、他の競技よりも入りやすかったですね」
―逆に、ブラインドだからこその難しさを感じる部分はありましたか?
「そうですね。僕の場合、足元にボールを置いてもらえれば、ドリブルもシュートもできました。ただ相手の位置がわからないので、パスを受ける、ボールを奪うというプレーができず、実際の試合でも何もできなくて……。最初のうちは、コートの中で自分がどこにいるかもわからなくて、気がついたら試合中にコートの外に出てしまっていたこともありました」
―当初から、かなり熱心に取り組まれていたのでしょうか。
「いえいえ、全くそんなことはありませんでした。楽しく体を動かせて、家に帰ったら美味しいお酒が飲めたらいいな、という程度でした」
◆夢を叶えて一区切り。次なる新しい挑戦は、広島から世界を目指すこと
―その、『楽しく体を動かせたら……』という思いが本気に変わったのは、なぜですか?
「ブラインドサッカー協会には日本代表とその下に育成カテゴリーのトレセン(ナショナルトレーニングセンター制度)があります。始めて2年ほど経った頃に出場した試合の対戦相手の監督が、育成カテゴリーの監督も兼任されている方だったんです。その方が、『日本代表を目指してみないか』と声をかけて下さったことがきっかけで、育成カテゴリーの合宿に参加するようになりました。合宿は東京で行われるので、普段は広島に拠点を置きながら、合宿がある時には東京に行って育成選手として練習をするという生活が始まりました」
―その後、東京に拠点を移されたとか。
「東京パラリンピックの後に招集された新体制に、僕は呼ばれなかったんです。その時、周りの方から『このまま地方を拠点にしていたら、代表に選ばれるのは難しいのではないか』と言われました。家族もいますし、本当は広島から日本代表を目指したかったのですが、より良い環境を求めて、単身、東京に拠点を移すことにしました」
―結果、代表の座を手に入れて、国際大会も多数出場されました。
「はい。この2年で、代表として8大会に出場させてもらいました。最初の1年間は4大会に出場して1点も取れなかったので、去年のオフ期間は得点力にフォーカスしてトレーニングを積みました。今年はIBSAブラインドサッカートーナメン(タイ)やブラインドサッカージャパンカップ(大阪)、IBSAワールドグランプリ(フランス)と3大会で6得点をあげることができたので、去年と比べたら良かったのではないかと思っています。どの試合でも、綺麗に相手をかわしてシュートが決まった瞬間は最高に気持ちがいいですね」
―ここからの目標を挙げるとすれば?
「家族からは、『もう少し東京にいてもいいから、2028年のロサンゼルスパラリンピックも目指して欲しい』と言ってもらっています。ただ、僕自身は広島に拠点を戻したいという思いもあるので、これからの新しい挑戦として、広島から日本代表を目指せないかと思っているところです」
―11月には、広島でブラインドサッカーの大会が開催されるそうですね。
「まだブラインドサッカーのことを知らない方も多いと思いますが、『本当に見えていないのかな』と驚くようなプレーや、人間の可能性は無限だと思わせてくれるプレーがたくさんあるので、見て損はないと思います。11月16・17日には広島でブラインドサッカー日本選手権の予選ラウンドが開催されます。僕が所属するA-pfeile広島はもちろん、日本代表キャプテン・川村怜選手が所属する東京のチームなど、魅力的なチームがたくさん出場します。ブラインドサッカーの面白さを感じてもらえる機会なので、ぜひ足を運んでみてください!」
後藤将起選手の【My Turning Point】
☆ 子どもの作文に書かれる自分の姿に危機感を感じ、一念発起
☆ 対戦相手の監督にスカウトされ、日本代表の育成トレセンに招集
☆ 家族の後押しもあり、広島から再度日本代表入りを目指そうと決意
後藤将起(ごとう まさき)
Masaki Goto
1985年4月9日生、広島県熊野町出身。
小・中・高校と11年間サッカーに打ち込み、高校卒業を機に一度は競技を引退する。理学療法士として勤務していた2016年、突然失明。自立支援訓練校でブラインドサッカーに出会い15年ぶりにアスリート人生を再スタートした。左右両足どちらでも蹴ることのできる強烈なシュートが武器であり、ディフェンス面での活躍も高く評価されている。2023年2月、男子日本代表強化指定選手に初選出され、日本代表としてパリパラリンピック出場を果たす。
◆チーム情報/A-pfeile広島(アフィーレひろしま)
2013年に、中四国初のアンプティサッカーチームを設立。現在は四肢の切断、麻痺を持つ選手が杖を使用して行う『アンプティサッカー』、視覚に障がいのある選手が目隠しをして行う『ブラインドサッカー』、電子車椅子を用いた『電子車椅子サッカー』、歩くことをルールとしてプレーする『ウォーキングフットボール』、フレーム(歩行器)を用いてプレーする『フレームフットボール』、精神障がいを持つ選手によって構成される『ソーシャルフットボール』の6種目のチームを持つ、日本初のインクルーシブフットボールクラブとして活動している。