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My Turning Point~広島アスリートが語る転機の物語~
【第6回】JTサンダーズ広島・前田一誠選手

新たなスポーツの楽しみ方を提供する、広島横断型スポーツ応援プロジェクト、通称『Team WISH』。プロ野球やJリーグをはじめ、数多くのトップスポーツチームを有する広島県ならではの取り組みとして、日々、各チーム・選手の魅力を発信している。

本連載では、Team WISHに参加する全25チームの選手・関係者に、「自身にとっての『ターニングポイント』とは」をインタビュー。
競技や人との出会い、試合やできごと、忘れられない「あの日」、誰かの言葉……競技人生に影響を与えた転機をめぐる物語から、選手の新たな一面にフォーカスしていく。

今回は、創設90年を超える伝統を持つ男子バレーボールチーム、JTサンダーズ広島の前田一誠(まえだ いっせい)選手が登場。遊びの延長で楽しくプレーしていた小学生時代から、中学校の部活で勝つための厳しい練習へとシフトし、全国大会を勝ち進むほどの力をつけた経験、Vリーグ入り後、9年間在籍したチームを退団して背水の陣を敷き、さらなる進化を期した覚悟など、バレーボール人生で体験したターニングポイントについて聞いた。

厳しい練習に耐えて急成長した中学時代が第一のターニングポイント

ーこの連載では、広島で活動するアスリートのみなさんに、『ターニングポイント』となった瞬間をインタビューしています。まず、前田選手がバレーボールを始めたきっかけからお聞かせください。
 「9歳離れた姉がバレーをしていて、練習の送り迎えについて行ったり、体育館で見ていたりするうちに、僕自身も自然とプレーするようになりました。きちんと始めたのは、小学1年生から。通っていた小学校には男子のチームがなかったので、女子チームに入りました」

ー女子に混ざってプレーされていたんですね。その後、お父様が前田選手のためにチームを立ち上げたと聞きました。
「そうですね。小学2年生の時、父が監督、友達のお父さんがコーチになってくれて男子チームをつくることになりました。実は、父はバレー経験者ではないのですが、姉が中学・高校で強いチームに所属していて、そこに良い指導者の方がいたので、見て学んで、指導してくれていました」

ーお父様の支えもあって、本格的にバレーを始めたんですね。その後は地元の中学校に進まれました。練習環境に変化はありましたか?
「地域の公立学校で、近隣の3つの小学校から生徒たちが集まってきていたのですが、バレー部には、各校から身長が高くて上手な子が2〜3人ずつ入部してきました。指導はかなり厳しかったのですが、チームはどんどん強くなっていき、初めての全国大会にも出場しました。僕自身は、『上手くなっている』という実感はなかったのですが、大会で都会の強豪チームに勝った時は、すごくうれしかったですね。僕たちのような地方の小さなチームが強豪チームに勝つ、というのが、とても楽しかったことを覚えています。僕自身もこの頃から、県選抜や日本代表にも選ばれるようになりました」

ーそこから佐世保南高校を経て、強豪・筑波大学へ進まれました。
「高校時代は思うような結果を残せなかったので、もう一度日本一になりたいという思いで、筑波大学に進学しました。先輩方はもちろん、同学年にも自分より能力やスキルのある選手がたくさんいて、このままでは自分は通用しないと感じてさらにバレーにのめり込みました。1、2年生の時は試合にも出られず、チームのサポートに回るという経験もしました。そこから這い上がって試合に出られるようになり、2012年には全日本バレーボール大学男女選手権大会(インカレ)で日本一になれたことが、成功体験で自信になっていると思います」

ーVリーグ 入りのきっかけは何だったのでしょうか。
「大学3年の時にインカレで結果を残すことができて、Vリーグ(2018/19シーズンから2023/24シーズンまで開催された、日本のセミプロバレーボールリーグ。2024/25シーズンからは再編成され『大同生命SV.LEAGUE 』が開幕する)のチームからオファーをいただきました。どこからも声がかからなければ地元に帰って教員になろうかと考えていたので、バレーを続けられることが決まった時は、うれしかったですね」

挑戦せずに後悔したくない。新天地・広島で、勇気と感動を与えるプレーに徹する

ー大学卒業後は、名古屋を本拠地とするウルフドッグス名古屋でVリーグデビューされました。名古屋には9年間在籍され、優勝も経験しています。広島へ移籍を決めたのは何故ですか?
「名古屋は本当に好きなチームで居心地も良かったのですが、自分の年齢や残りのバレーボール人生を考えた時に、『このまま終わったら悔いが残る』と思ったんです。その当時もう30歳でしたし、選手としては十分長くやったという思いもありました。このまま残ってチームの母体である会社に就職して社業に専念すれば、5年後、10年後は見えやすいです。でも、もしかすると他のチームからのニーズがあるかもしれない。ないかもしれないけれど、ここでトライしなかったら、きっと後悔すると思いました。家族も『挑戦してみたら』と言ってくれたので、自分が人としてより大きくなる道を選ぶために、名古屋のチームを離れることを決めました」

―名古屋のチームを離れる時点で、次の移籍先は決まっていたのですか?

「いいえ、決まっていませんでした。その状況で、チームも会社も辞めて1から探すというのは、バレーボール人生で一番大きい、勇気がいる決断でした。僕のバレー人生の中で、最大のターニングポイントでしたね」

ーいくつものオファーのなかから、JTサンダーズ広島に移籍を決めた最大の理由は何だったのでしょうか。
「当時の広島はリーグに参戦している10チームのうち、7位あたりの順位だったと記憶しています。ただ、対戦していても、その順位で終わるようなチームではないという印象がありました。ずっと『優勝するチャンスがあるチームだ』と思っていましたし、自分がチームに入って優勝に貢献したいと強く感じたことが、加入を決めたいちばんの理由です。オファーを受けていろいろ話をさせていただいた時も、自分を必要としてくれているのが伝わってきて、とてもうれしかったことを覚えています」

ー広島に加入されて2年が経ちました。広島の、スポーツを取り巻く環境をどのように感じていますか?

「本当に素晴らしいと思います。以前は『ウルフドックス名古屋の前田です』と言っても、チームがある愛知県稲沢市に住んでいる方でさえ、なかなか認知されていませんでした。一方広島では『JTサンダーズ広島です』と言うと、『バレーボールのチームだよね』と認知されている。それは本当にすごいと思います。カープやサンフレッチェ広島が勝った日は、広島の人たちが盛り上がっているのが肌感でわかりますよね。その盛り上がりは選手にも伝わるので、すごくやりがいがあると思います。広島ドラゴンフライズが昨シーズン優勝した時に、『優勝するとこんな風になるんだ』というポジティブなイメージが湧きました。他の競技の活躍を自分たちのモチベーションにできる、とても恵まれた環境だと思います」

ー県外で長く活躍された前田選手だからこそ、『広島ならでは』の特徴をより感じられるのかもしれませんね。それでは最後に、県民の皆さんへメッセージをお願いします。
「いつも応援ありがとうございます。2024年10月に始まる2024/25シーズンは、新しいトップリーグ・大同生命SV.LEAGUEに参戦します。試合数も増え、外国人選手枠も増えてタイトル争いはより熾烈になりますが、チーム全員のタイトルを取りたいという気持ちは年々強くなっているので、期待してください。『最高の勇気を。最大の感動を。』というチームのスローガンの通り、勇気と感動を感じてもらえるようなプレーをしていれば自ずと結果もついてくると思っています。ぜひ会場で、1人でも多くの方に見ていただきたいです。よろしくお願いします!」

前田一誠選手の【My Turning Point】
☆ 楽しいだけだったバレーボールが、本気の「競技」へシフトチェンジした中学時代の部活動
☆ 自身の成長のため新天地を求め、長年在籍したチームを辞め移籍を決めた大きな決断


前田 一誠(まえだ いっせい)

1991年9月22日、長崎県出身。
ポジションはセッター。姉の影響で小1からバレーボールを始め、中学時代の「勝つための厳しい練習」を経て才能が開花した。高校3年の時U-18日本代表に選ばれ、U-21カテゴリーやユニバシアードでも日本代表として国際大会を経験。2014年に豊田合成(現・ウルフドッグス名古屋)に入団し、2022年にはVリーグ通算230試合出場で『Vリーグ栄誉賞』を受賞した。2023年、名古屋退団直前の第71回黒鷲旗ではチームの優勝に貢献してベスト6を受賞。約2ヶ月後の7月にJTサンダーズ広島へ移籍し、現在はチームにとって2014/15シーズン以来となるタイトル奪取に向けて邁進中。

◆チーム情報/JTサンダーズ広島
1931年頃、日本たばこ産業(JT)の実業団チームとして創部。第1回日本リーグからV.LEAGUEまで、1度も2部降格を経験していない唯一のチームとして日本バレーボール界をけん引している。V・プレミアリーグで優勝1回、V.LEAGUEでは準優勝1回。黒鷲旗では優勝4回、準優勝6回の実績を持つ。2024/25シーズンは新設されるトップリーグ・大同生命SV.LEAGUEに参戦。9月中旬にはチーム名を「広島サンダーズ」に変更して新たなスタートを切る予定だ。