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東京2020パラリンピックで堂々の銅メダル!
柔道家と教員の二刀流で突き進む期待の新星

初めて出場した東京2020パラリンピックの視覚障害者柔道で銅メダルを獲得した、瀬戸勇次郎選手。視覚障害者柔道のニューカマーとして、今、最も注目を集めるアスリートの1人だ。

パリパラリンピックでの活躍も期待される中、柔道を始めてから現在まで、大学院への進学理由、そして柔道家としてだけでなく、人として真摯に強く生きる瀬戸選手に迫った。

4歳から柔道猛特訓!試合も旅行も楽しんだ広島

(写真右) 瀬戸勇次郎 選手

―4歳から柔道始められたそうですね。

兄が柔道を始め、「自分もやりたい」と思ったのがきっかけとなり、地元のスポーツ少年団に所属しました。両親は剣道か柔道、つまり武道を僕たちにさせたかったようです。幼少期は体を動かすこと自体が楽しかったのですが、小学校にあがるとどんどん練習が厳しくなり、きつかった思い出も多々あります。よく先生から怒られましたが「なぜ怒るのか」をはっきり言ってくれる先生でしたね。当時はとても怖かったのですが、今となってとても感謝しています。

―改めて、柔道を続けられてきた理由、そしてその魅力を教えてください。

毎日の積み重ねた稽古によって、試合で良い結果が出ることでしょうか。相手を投げる瞬間は、ものすごく気分がいいもので、一本を取って勝った時の喜びは大変大きいです。現在は、幼少期の「先生が怖かった」とか「なかなか柔道から逃げられなかった」という思いや環境を飛び越え、柔道の楽しさをとても強く感じています。

―広島には、試合等で来られたことはありますか。

直近でいうと今年の2月、視覚障害者柔道の強化選手の合宿で、広島大学にお邪魔し、稽古をさせてもらいました。広島には、以前から旅行や試合で伺ったことがあり、とても好きな場所です。試合で行った時はお好み焼きを食べ、旅行として訪れた時は平和記念資料館に行きました。それに、宮島にも行きましたよ。潮が引いていたので、鳥居の近くまで歩いて行ったことをよく覚えています。

―広島の印象はいかがですか。

広島で一番に思い浮かぶのは、広島東洋カープです。僕が好きなスポーツのひとつは野球です。ホークスファンなのでセ・リーグに馴染みはないのですが、広島といえばやっぱりカープですよね!交流戦のタイミングがあれば、是非マツダスタジアムに行きたいと思います。

一番の武器である背負い投げを武器に視覚障害者柔道で活躍

―視覚障害者柔道と健常者柔道のルールはほとんど同じだと聞いています。

「組み合った状態から開始する」というルールが一番大きな違いです。しかし、そのルール以外はほぼ同じで、皆さんから見ても、視覚障害者と健常者の試合の違いは、あまり見つけられないかもしれません。細かく言うと、見えない人への配慮という点で罰則行為の違いや、障害の程度によるクラス分けなどの独自規定があります。

―瀬戸選手は先天性の目の病気をお持ちだと伺っています。どのような症状か、差し支えなければ教えてください。

僕の場合は先天性なので、見える方々の見える形や視野を知りません。そのため上手く表現できないのですが、僕の目の症状を見た眼科の先生や、後天的な視覚障害者の方たちから聞くと、全体的にぼやけているような感じだと言います。よく「スリガラス越しに見ている」という表現が使われますね。僕自身は、スリガラスと言われるほどぼやけていないと思っています。「透明なクリアファイルが目の前にある」とすれば正しいかもしれません。また僕は、近くのものを、目を近づけて見るには、あまり問題はありません。遠くのものでも大雑把ですが形は分かります。生活の中で一番困るのは、眩しさです。よく晴れている日は、視界が真っ白になるためサングラスを着用します。加えて、色の見え方が、見えている方々とは違うようです。例えば、黄色と黄緑と緑、紫と青と赤とピンクの区別がつきません。見えるもの、見えないものをはっきり説明するのは難しいのですが、視覚障害を広く知ってもらうため、自分の障害に関しては定期的に発信し、知っていただきたいと思います。

―小さい頃は健常者と一緒に柔道の稽古や試合に励まれていたのでしょうか。
そうですね。視覚障害者柔道を始めたのは高校生の頃です。それ以前は、目の見える健常者の人達と柔道をやっていましたし、健常者のルールで試合に出ていました。

―その経験が、瀬戸選手の強みになっていますか。

そう思います。視覚障害者柔道をする国内の選手は、もともと柔道をやっていて後から見えなくなった人たちが多くを占めます。僕のように、障害のある状態から柔道を始めた人が少ないのです。僕は見えづらい状態で中学高校大学と健常者の中で柔道を行ってきました。障害者柔道は健常者柔道に比べ、人数も少なく、まだまだ高いレベルではありません。そういった意味では、常に強い相手と稽古する機会が多かったため、自分の力になったと思います。あとは、スピード感ですね。視覚障害者の柔道は接近戦なので、健常者の柔道ほど動きません。つまり動きの速い健常者柔道を経験しているので、余裕をもって対応できているのではと思います。

―試合の動画を見ていると、ものすごく手の力が必要だと感じました。

その通りです。視覚障害者柔道を始めたばかりの頃は、それがもうきつくて仕方がありませんでした(笑)。相手の襟元をずっと握っておかねばならず、一般的な握力とは違う道着を握る力が大切になります。試合をした後は、腕がパンパンになります(笑)。

―注目してもらいたいプレーを教えてください。

得意技の背負い投げが、僕の一番の武器だと思っています。もし試合を見ていただく機会があれば、勢いのある背負い投げに注目して見てください。

銅メダルを獲得するも更なる目標に向けて大学院へ

―東京2020パラリンピックで銅メダルを獲得されました。その瞬間の気持ちはいかがでしたか。

すごく嬉しかったですね。当時の僕は、メダル獲得が厳しいランキングにいました。さらに敗者復活戦から勝ち上がった3位決定戦。メダルが取れるか取れないのかの境目なので、「ここで勝たないと違いは大きいぞ」と周りからのプレッシャーもあり「何とかして勝ちたい」と思っていました。でも不思議にあの時、勝つ自信があったんです。結果、背負い投げではありませんでしたが、自分の得意技で勝つことができ、とても嬉しかったですね。

―そこまでの道のりは長く辛いものでしたか。

東京2020パラリンピックを目指すと決めてからの準備期間は2年しかありませんでした。自分自身の実力がまだメダルに届いてないという自覚と、期間の短さに辛さを感じたときもあります。かつ国内での開催は注目度も上がります。情けない負け方をしてしまったらどうしようという不安もありました。

―稽古よりも精神的な部分でプレッシャーがあったと。

そうですね。どちらかと言うとメンタルです。どれだけ練習すればメダルに届くのかが分からない。かといって、きつすぎる練習はしたくない。甘えがあるのを自分でも分かっていながらも、メダルは欲しい。そして「柔道が全てではない」とも思っていたので、そのバランスに悩んだこともありました。

―柔道が全てではないというのは。

高校生の頃から先生になるのが夢だったので、福岡教育大学に進学し、教員免許を取得しました。実は、教員を目指すため、高校で柔道を辞めようと思っていたんです。ちょうどその頃、視覚障害者柔道に出会い、大学でも柔道を続けることになりました。そもそも、選手としての柔道を、死ぬまで続けられるわけではありません。世界で勝てるのは、やはり30代までです。それから後、30年以上、社会人として働く期間があります。また、現状の視覚障害者柔道では、柔道だけで食べていける人はいません。そんなことを考えていると、「柔道は自分の中心ではない」と思うようになりました。そうでなくとも、人生において、ある1つのことだけが自身の全てになりうるとは思っていないのです。そのバランスは、日頃から考えて動いています。

―しっかりとキャリアを考えられているのですね。

柔道は、仕事ではありません。今柔道だけやっていて、後で困るという事態に陥りたくないのです。色々ととかっこつけたことを話していますが(笑)、もちろん東京パラでは銅メダルで終わってしまい、「金メダルが欲しかった」という思いも本音なので、次のパリパラリンピックまで頑張ろうと思います。柔道を全てにしたくなかった僕は、柔道をやりながら教員になる準備ができるよう、この4月から筑波大学の大学院に進学しました。自分の身に起こる全ての事柄を考えると、いろんなものが繋がっているのだなと改めて思います。柔道をやっていたからこそ、大学院に行きたいと思えるようになったし、実際に行けるようになりました。おそらく、大学院に行って教員になる準備を進めている安心感が、柔道を思いっきり取り組める一つの要因だと思っています。

―大学院での研究内容を教えてください。

アダプテッドスポーツを学ぶ研究室に入りました。障害や性別、年齢、それぞれの特性に合った形のスポーツを考える分野です。アダプテッドスポーツを研究することは,スポーツで多様性を尊重できる共生社会について考えることに繋がるのではないか,と思いますし,物事をより深く考える視点は,自分が目指している教員になる為にも大切な視点だと思います。

パラアスリートとして、かつ教員として将来を見据える

―2024年パリパラリンピックに向けての目標、そして課題を教えてください。

目標はもちろん、金メダル獲得です。ここ最近の試合で、自分の得意技である背負い投げがかなり警戒されていると感じています。背負い投げで一本をとるための更なる対策の強化、そして他の技を使って相手の注意をそらし揺さぶるための、背負い投げ以外で得意とする技を、身に付けていきたいと思います。

視覚障害者柔道の国際大会
「東京国際オープントーナメント」2022 

―柔道家としてはもちろん、人としても素晴らしい方だと感じました。生きる上で大切にされていることはありますか。

先も述べたように、物事は全て繋がっているし、選んだ選択肢の1つが自分の全てになるわけではないと思っています。だからこそ、やりたいと思ったことは全部できるよう、工夫していきたいのです。例えば柔道だと、パリで金メダル獲得が目標ですが、メダルを取れば終わりではありません。柔道選手としての選手生命が終わってからも、稽古はするし、何かしらの形で柔道に関わっていくでしょう。また、教員になりたいと思いますが、なること自体が目的ではありません。教員になった後、そして教員としての経験を積んだ後に、それをどう人生に活かしていくのかを目標にしなければなりません。先を考え、新しい目標を作り、その目標を達成すればまた更に新しい目標ができます。以前この話をとある人にした時、「それは、志と言うんだよ」と言っていただきました。そういった部分を大切に、生きていきた いと思います。

―ありがとうございます。最後に読者の方々にメッセージをお願いします。

まず、今回の記事を読んでいただいて、視覚障害者柔道をより多くの人に知っていただきたいと思っています。パラリンピックは知らない人、見たことがない人がまだまだたくさんいるので、ぜひ次のパラリンピックでは柔道はもちろん、いろんな競技を見てパラスポーツの面白さを知ってもらいたいのです。そして、まだ代表は決まっていませんが、もし僕が出場できれば金メダルを目指して頑張りますので、ぜひ応援をよろしくお願いいたします。


瀬戸勇次郎 

Seto Yujiro

先天性の目の病気により、弱視と色覚障害を持ちながら4歳で柔道をスタート。中学、高校も部活動で柔道を続け、高校3年で全国視覚障害者学生柔道大会に出場。2018年、全日本視覚障害者柔道大会(男子66kg級)でパラリンピック3大会金メダルの藤本聰を破る。その後も、国際舞台で経験を積み、東京2020パラリンピック出場権を獲得。初出場した東京大会で銅メダルを獲得した。2022年3月に福岡教育大学卒業。2023年4月からは筑波大学大学院で学び、パリパラリンピック出場を目指す。


(コラムコーディネート/大須賀あい)