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「広島」だからできるスポーツビジネス

広島県スポーツ政策アドバイザー 奥大地

野球から陸上へ

私は株式会社ベアフットの奥大地と申します。現在、J1リーグ所属のサンフレッチェ広島と契約しており、クラブの仕事を日々のメイン業務にさせていただいています。それ以外にも広島県のスポーツ推進課(スポーツアクティベーション広島/SAH)のアドバイザーや、広島グリーンアリーナ(広島県教育事業団/県立総合体育館)を運営している会社の事業アドバイザーを務めております。

私は、広島市西区観音生まれの、関西育ちです。子供の頃は野球をやっていました。ずっと野球を続けたかったのですが、全然上手ではなく、足だけが速く、1番ライトみたいな感じでプレイしていました。監督からは大体「バントして走って塁に出なさい。外野でランニングホームランを止めてきなさい」と言われ、打つことをあまりさせてもらえなかった少年時代でした。

結局、足が速いのでその後、陸上をやりました。地域の中では中長距離が速かったということもあって、中学校からは野球より陸上を選択しました。

高校は報徳学園という兵庫県のスポーツが強い学校に行きました。報徳でも、中長距離をやっていました。1年の時の第40回全国高校駅伝(京都)では、陸上界では語り継がれている「西脇工業との1秒差の決戦!」を目の当たりにしました。兵庫県の両校が高校最高記録で1位、2位となりました。私自身はメンバー外(寄ってないレベル(笑))だったのですが、チームとして全国優勝を経験させていただきました。高校卒業後は、親の都合もあって広島に帰って来たという流れです。

ある人との出会いで、人生が決まる

その後、自分の人生が決まるような出会いが偶然に起きました。ある日、私がお店に並んでいたら、隣の方が、当時チチヤスの社長をされていた野村尊敬さん(元日本サッカー協会副会長)の運転手さんだったのです。その方が私に「今度Jリーグってのができるから、うちの派遣で、そこでアルバイトしないか?」と言われたのです。

当時の私はサッカーに興味がなかったので、Jリーグができるということに特に興味はありませんでした。それが1993年の5月Jリーグ開幕の時です。いきなりバイトに誘うので、変なおじさんだなと思ったのですが、アルバイトはしたかったですし、広島に知り合いも少ないので、いいチャンスかも?という思いでついて行きました。そこは、人材派遣会社だったのですが、そこからJリーグ/サンフレッチェ広島の試合に派遣されたというのが、スポーツの仕事に関わるようになった最初です。

そこでやっていたのがJ’s GOALという今でいうとファンサイトでした。当時はインターネットがなかったので速報を出すテレホンサービスでした。そこで音声記者、音声アルバイトみたいなことをしていました。それがサッカーの仕事に関わった入り口です。

その人材派遣会社からの縁で、広島県の広告企画制作会社に入り、国体やアジア大会、スポーツレクリエーションフェスティバル、ねんりんピックなどの仕事を担当することになり、その会社でスポーツとイベント制作というところに関わっていました。

その後に大手広告代理店に出向し、飲料や携帯電話のプロモーションをやりました。最初は面白かったのですが、やはり陸上時代の仲間が、国際陸上に出ているのを、テレビで見たり、また、J’s GOALの取材を通じて知り合ったサッカー選手から「目的をもって勝負している」話を聞いたりしている間に、心が揺らぎ始めたのです。

そんな時でした。

2011年、東日本大震災が起きました。

東日本大震災と『東北人魂』の活動

震災支援のため、現在FC東京所属の、高萩洋次郎選手(当時広島)や鹿島アントラーズ所属の、小笠原選手などが中心になって『東北人魂を持つJ選手の会』という活動をしていました。僕は広島からスタッフとして参加させてもらいました。

2011年7月11日、東北人魂広島プロジェクト発表記者会見の様子

小笠原選手、柴崎選手(当時鹿島)、今野選手(当時FC東京)、高萩選手、中島選手(当時広島)と一緒に東北を回った時、記者会見の準備や、サイン会の進行などイベント関連のパートを僕が中心になってやっていました。私にもそういう役に立つ部分もあったので、毎年スタッフとして僕を呼んでくれたのです。

自分のやってきた仕事(与えられたキャンペーンやイベントの制作運営)は、別に僕でなくてもできるんじゃないかと思っていました。ところが、東北人魂のボランティア活動で、スポーツとつながることで自分の役割がもう少し明確になったのです。「あ、僕でも、役に立つことがあるんだな」と思いました。今となっては、そういった機会を与えてくれたことに本当に感謝しています。

その後ですが、サンフレッチェ広島がJ1リーグを連覇した2013年末に、東北人魂で一緒に活動をしていた中島浩司さんと一緒に会社を設立しました。仕事内容は、スポーツ広告やスポーツによる地域貢献です。広島ではプロ野球の広島カープ以外のスポーツ組織は自らのチーム運営をするのに精一杯、地域とのコラボ、いわゆるスポーツを使った地域活性化という観点はなかなか持てないのが実情だと思います。しかし、我々は「スポーツが力を持っている」ことを知っています。だから、そこに特化した会社としました。その会社の活動が現在に至っています。

サンフレッチェ広島と地域

現在サンフレッチェ広島では、セールスプロモーションに関わる仕事をしています。サンフレッチェは、スタジアムの場外に「にぎわいステージ」というステージをつくっています。こういった交流ステージは、カープやドラゴンフライズといった広島のプロスポーツチームにはないもので、いろんな文化の交流場所になればいいな、と思って作っています。ステージで他のクラブチームや他のスポーツ団体、音楽など、外部との連携による相互交流を実施しています。

2021年4月3日、おまつり広場「にぎわいステージ」の様子

去年は世の中の新型コロナの情勢的に何も出来なかったのですが、スタジアムで駅伝大会をして、そのあとサッカー観戦をしてもらう等、他競技とのコラボを考えていました。これは私の夢みたいなものですがハーフタイムに100メートルの9秒台チャレンジとかやったら面白いんじゃないかと思っています(笑)。このアイデアは、友人の北京五輪マラソン代表の尾方剛さん(現 広島経済大学陸上競技部監督)、アトランタ、シドニー五輪代表の高岡寿成さん(現 カネボウ陸上競技部監督)、こちらもアトランタ、シドニー代表の花田勝彦さん(現 GMOアスリーツ監督)の4人で、昨年オンライン飲み会で語って盛り上がりました(笑)

「にぎわいステージ」自体は2020年9月以降ずっとやっています。新型コロナの影響で、パフォーマンスの場を失った団体さんや、小学生たち、ダンスのスクールをやっている人たちが発表の場を求めて来てくれます。ステージを提供し、サッカーを観戦して帰ってもらう。そういうことが広島の文化のためにも有意義かなと今制限がある中では思っています。

大事なのは東京オリンピック・パラリンピック後の広島

2016年8月6日、広島の夜空を照らす「6本の光の企画」

オリンピック・パラリンピック後のスポーツの立ち位置は、いろいろな場で話題になるテーマです。東京は広島から少し離れていますが、スポーツの風は広島にも吹いてくると感じています。僕らはオリンピックの後、スポーツの風をしっかり残して、「スポーツの力」で街を元気にしていきたいと思っています。日本に来たら「広島」を知ってもらい、多くの人にインバウンドで、広島の街へ観光に来てもらうことが目標のひとつでした。そして、Jリーグでも強豪のサンフレッチェの試合を見てもらいたかったです。(取材後、海外からの一般観戦は難しいとの報道がありました)

そして、2024年のシーズン開幕に向け、サンフレッチェ広島の新スタジアムが市内に新しく完成することになりました。アクセスは街の中心部なので、とても便利です。これほど市内中心部にスタジアムができるのは初めてではないでしょうか。ターミナル駅の広島駅から歩いて約20分くらいですし、JRで一駅だけ乗っていただければ本当にすぐ目の前に見える場所です。バスセンターや市電、アストラムラインなどもすぐ近くです。

スタジアムの名前はまだ決まっていませんが、私たちの中では「街中スタジアム」とか「ピーススタジアム」と呼んでいます。こちらも本当に楽しみにしています。新スタジアムもアフターオリンピック・パラリンピックによって巻き起こったスポーツの風を受け継いでいく大切なアイテムです。オリンピック・パラリンピックは「スポーツと平和の象徴」だからです。

「6本の光の企画」は本安川からも確認できた

広島といえば世界に2つしかない、原爆投下を経験した都市です。僕は前職の時にカープの「ピースナイター」など平和にまつわるイベントにも携わったことがあります。『広島』と『平和』は、切っても切れない関係です。長崎もそうでしょう。広島でこういった仕事をしている以上、平和についてのイベントというのはとても大切に思っていま

サンフレッチェ広島では8月に「ピースマッチ」を開催しています。今年も8月14日のヴィッセル神戸戦をピースマッチとして開催する予定です。5年前にサンフレッチェ史上初めて8月6日の原爆の日 当日に公式戦が開催されました。私は、広島市内を流れる6本の川をイメージした6本の光をエディオンスタジアムから、原爆ドームに向けてアーチをかけ、観客の皆さんと「スポーツのできる平和に感謝し、灯篭流しをしている平和公園へ祈りを捧げる」企画を考えました。実際に本安川からもスタジアムからの6本の光のアーチを確認することができました。

さらに、2018年J1リーグにV・ファーレン長崎が上がってきたときに、広島対長崎の試合でピースマッチを開催し、私も企画のお手伝いをしました。被爆都市のチーム同士がJ1リーグで対戦するなんて、本当に意義深いと思いましたし、そこに関われた事は大切な思い出です。

今回新しいスタジアムができると、広島だからできる発信として「平和とサッカー」が大きなキーワードになると思います。またサッカーには、野球にはないアジアチャンピオンズリーグ(ACL)やクラブワールドカップなど、クラブ単位で国外で戦う公式戦があります。そこで、もっともっと「広島・平和」の発信ができるようになるのではないかと考えています。サンフレッチェ広島を県の「国際平和大使」にしてほしいくらいです。

今後のサンフレッチェ広島のスポーツクラブ

 今、考えている今後のことについてですが、今から人口、そして、子どもが少なくなっていく時代にサンフレッチェのサポーターも当然減っていく可能性があります。実際にサンフレッチェの観戦者の年齢層は上がっています。そうなると現状のままでは減収となっていくことになります。

2020年1月9日、新ユニフォーム発表イベントの様子

正直、今のところ若い人たちのファンづくりがうまくいってない状況だと感じています。野球はカープの帽子をかぶらせ、赤ちゃんのよだれかけまで赤いですよね(笑)子供の頃から保護者の方が子どもに“カープの英才教育”をしています。本当にすごいことです。

しかし、サンフレッチェは歴史あるカープと同じ状況に急にはなりません。私たちはまた違う観点から応援していただける方を増やしていこうと考えています。サンフレッチェではサッカーだけではなく、いろいろなスポーツ教室を主催したり、例えばブラジル人の選手が沢山いるのでポルトガル語講座を開くのも良いですし、サンフレッチェ主催の学習塾があってもいいと考えています。

また、現状すでにクラブが展開しているサッカー教室(アカデミー)の中でも、未就学児などを対象に、まずは体を動かすことを楽しむ教室など開催していくことで、サッカー選手を目指す子ども以外の方も参加しやすくなり、サンフレッチェ・ファミリーを増やしていくことができるのではないかと思っています。これは、とれも大事なことです。サンフレッチェが、広島県というエリアの中で、子どもたちの成長を手伝ったり、共に歩み学んでいく総合型クラブのような存在になれば、広島の県民・市民にとって「サンフレッチェ」は「サッカークラブ」以上の存在になれると思っています。

ドイツにはVerein(フェライン)という文化があります。フェラインは、共通の目的を持った集団のことです。その集団が実施することは、スポーツに限らず、文化・教育・芸術など様々で地域との交流を担っています。フェライン自体はNPOなどが多く、プロスポーツとは違うのですが、地域を巻き込んでいくことにはヒントがあるように思っています。

サンフレッチェが、広島を牽引できる地域の総合型スポーツクラブと認識されるようになれたら本当に嬉しく思います。そして、ACLなどで世界に出ていくことになった場合、アジアなどの他の国に「平和」に関するコミュケーションを取っていくことができます。これは、サンフレッチェ広島が「広島を世界へPR」する役割を担っていけるのではないかと真剣に思っています。

そして、その時には、広島におけるスポーツを取り巻く環境が劇的な変化をしているはずです。そこに広島ならではスポーツビジネスの形があると思っています。


奥大地

Daichi Oku

株式会社サンフレッチェ広島 コーディネーター 兼 セールスプロモーション部プロモーションリーダー

公益財団法人 広島県教育事業団 広島県立総合体育館 事業運営アドバイザー

中国経済産業局「ちゅうごく5県プロスポーツネットワーク(スポコラファイブ)」有識者委員

株式会社ベアフット 所属



報徳学園高校で陸上部に所属(長距離・駅伝)

1993年Jリーグ開幕時にフリーでサッカー記者を担当

1994年 国内旅行業務取扱管理者資格取得

1995年 株式会社朔広告制作所入社/18年間 広告イベント企画を担当

(主な仕事)

※2000年国民文化祭、2001ねんりんピック、2002年スポレク担当

※大手広告代理店への出向

※携帯電話メーカーのプロモーションを担当

※サンフレッチェ広島開幕イベント、ファン感謝デー企画制作

※ガイナーレ鳥取J2昇格時の演出協力

2013年 株式会社ベアフット設立