Magazines マガジン
-
野球
-
コラム
スポーツを楽しみ、地域を盛り上げる
とにかく野球少年でした!
僕の名前は細川享と申します。
現在は九州独立プロ野球リーグに所属し、熊本県に本拠地を置く「火の国サラマンダーズ」で監督をさせていただいています。
まず、自己紹介からさせていただきます。野球に初めて触れたのは保育園の時でした。親父が朝、野球をやっていたこともあり、毎朝5時ぐらいに練習場所へ連れていかれてベンチに座っていました。そこから野球が始まりました。
その後は、通っていた平内町浅所小学校にあったチームに入りました。当時はサードをやっていました。中学校に進学してからも野球部に入部し続けていました。中学校時代はサード守ることが多かったですが、ピッチャーもやるようになりました。中学校卒業後、青森県立青森北高等学校に進学して1年生の春はライト、夏の甲子園大会の時はファーストを守っていました。
青森北高等学校野球部での恒例行事なのですが、1年生の秋に3年生を送る会というのがあります。そこで3年生チーム対 1年+2年の合同チームで試合をするのです。その時、キャッチャーをする人がいなくて「僕がやりますよ」と言ってキャッチャーマスクを被ったんです。その試合で座ったまま投げて盗塁を指したことがきっかけで、僕のキャッチャー人生が始まったのです。今思えば本当に凄い偶然です。
憧れのプロ野球の世界へ
高校を卒業して青森大学へ進学しました。もちろん野球を続けていましたが、1年生の時キャッチャーでベンチ入り、先輩方に神宮大会に連れて行っていただきました。
大会ではベスト4までいったのですが、対戦相手は近畿大学でした。近畿大学には、後に読売ジャイアンツへ入団する二岡選手※が在籍していて、4打数4安打1ホームランを打たれて、完敗したのを今でも鮮明に覚えています。
※二岡選手…広島県三次市出身の元プロ野球選手。広陵高等学校卒業後、近畿大学へ入学。1998年ドラフト2位で読売ジャイアンツへ入団。日本ハムなどでもプレーし、2014年に現役を引退。現在は読売ジャイアンツ三軍監督を務める。
その後は2001年のドラフトで翌年2002年から伊原監督率いる西武ライオンズへ入団して9年間お世話なりました。入団してすぐに思ったことですが「本当に厳しい世界だな…」と。当然といえば当然なのですが、すごいピッチャー、すごいバッター、とにかく凄い人しかいない。その人たちに怒られながら毎日毎日トレーニングをしていました。
当時、僕自身は全然キャッチャーというポジションを理解していなかったのですが、偉大なピッチャー陣や和田一浩選手、カブレラ選手など走攻守揃った選手が沢山いるお陰で2004年には日本一を勝ち取りました。その後の2008年、現在はジャイアンツにいる中島選手や片岡選手、涌井選手、岸選手といった若いメンバーで再び日本一を取ることができたのです。
2011年にはFAを行使して、福岡ソフトバンクホークスにお世話になるようになりました。その時も、松中さんや小久保裕紀さんが中心となって、日本一をまた経験することができました。チームや仲間に、本当に恵まれていると感謝しています。
トッププレーヤーから学んだこと
僕の人生で一番嬉しいこと、それは常にトッププレーヤーと一緒に野球をさせていただいたこと、これに尽きます。沢山の良い経験をさせていただけました。
特に西武時代ですが、私の入団時、選手兼コーチだった伊東選手の偉大さがものすごかったんです。指導法が独特で、言葉で教えるわけでもなくて、いつもヒントだけを与えるのです。それも一言だけ。
「バッターをちゃんと見ろ」
これだけです。凄いシンプルですが「ハッ」とさせられる瞬間があるのです。ピッチャーの球のことも、例えば「ストレートがちょっとおかしい」とか「重みがない」とか、そのためにはピッチャーの球をいっぱいとらないと分かるわけがないと教えていただきました。
答えというのも直接教えてもらえなかったですが、そちらの方が自分で考えを出して、失敗したり成功したり、いろいろと考える機会が多かったです。僕にとってはこちらが良かった、本当成長できたと思っています。
広島、そしてこれからの自分
広島との関わりだと、広島東洋カープに所属していたキャッチャーの石原選手(2020年に現役引退)が東北福祉大学出身なのですが、自分は青森大学。
同じ東北で同級生ではありましたが、試合をする機会はほとんどありませんでした。ライバルという感じではないのですが、なぜかお互い意識する仲間でした。
それもあって広島と試合するのがとても楽しみで、石原選手は、日本代表に選出されたりして、私にはできない経験をしているのですが、冗談で「俺の方が上だろう」みたいな冗談を遠慮なく言えることができる関係なんです。現在でもたまに電話をしては、いろんな話をしています。
プロ野球時代、西武の時に広島には結構負けていました(笑) ソフトバンクへ移籍してからは、地理的に近いということもあり、毎年3月のオープン戦の最後の試合は、広島と3連戦で締めくくります。広島が福岡へ3連戦に来たり、またソフトバンクが広島へ行ったり、そういった交流がありました。本当、強いチームだという印象です。
現在の私のことですが、本音をいうとNPBのコーチになりたいという思いがあります。でも、自分の思い以前に、全国には「野球をやりたい、でも、できない」という人たちがたくさんいるんだと話を聞いていました。それでNPBを目指したいという人が沢山いるのであれば、自分がプロで経験したことを少しでも伝えてあげたい。そして野球を楽しみ、プロを目指して欲しいという気持ちが強く生まれました。
そういった思いから「火の国サラマンダーズ」に関わっています。2月からキャンプインしていますが、熊本の震災復興にも携わっていきます。また阿蘇の方に高森という場所があるんですが、そこに「歌劇団」があるんです。女性たちが歌って踊る歌劇団です。歌劇団といえば宝塚がとても有名なのですが、地元にある歌劇団と一緒になって熊本を盛り上げていこうと進めていきます。
まだまだ震災や大雨洪水の影響で困ってる方が大勢います。野球と歌劇団で熊本を盛り上げていきたい、これが今の一番の目標です。
チームの選手は高校卒業したての18歳から最年長で27歳が在籍しています。ほんとに若い選手たちです。みんなが若くて元気いっぱいのチームです。監督としてやっぱり彼らに勝たせてあげたい。まず、その気持ちがありますが、一番の思いは野球を通じて良い人間になって欲しい。野球をずっとやっていきたいという気持ちは選手全員あるでしょう。
でも、年齢的や体力的な限度はいつかきます。その先の人生の方が余程長いのです。野球以外の人生において、野球で培った人間性を良いことに使っていく、こういったあゆみ方をして欲しいと望んでいます。本当に良い人間になって欲しい、これがやはり一番の気持ちです。
2月26日には日南で広島の2軍の試合を組ましていただきました。結果はサヨナラ負けでしたが、選手にとって、チームにとって良い経験になったに違いありません。
今はプロ野球やサッカーだけではなく、バスケットでも卓球でもプロスポーツというものが多くなってきています。目指すものが多くなってきてはいますが、スポーツをすることで小さい頃に抱いた夢、指導者から教えてもらった夢。夢というものを追いかけて欲しい、これに尽きます。
スポーツを続けることで何か掴むものがあります。掴むものは人それぞれです。スポーツを続けて、挫折もあるでしょうが、好きであれば続けてやってもらいたい、ずっと続けていってもらいたい。コロナ禍でもコロナが落ち着いた後でも、やり方を考えながらスポーツを続けてもらいたいです。
細川亨
Toru Hosokawa
火の国サラマンダーズ初代監督 元プロ野球選手
青森県出身。青森県立青森北高等学校では1年次から主力として活躍。甲子園出場は叶わなかったものの、強肩強打の捕手として活躍した。卒業後は青山大学へ進学し、1年次から内野手・捕手としてレギュラー入り。4年春にはベストナインも獲得した。2001年のNPBドラフト会議で埼玉西武ライオンズへの入団が決定。その後、福岡ソフトバンクホークス、東北楽天ゴールデンイーグルス、千葉ロッテマリーンズで活躍し、2020年に現役を引退。2020年12月から九州アジアプロ野球リーグに所属する「火の国サラマンダーズ」の監督に就任。