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スポーツは人に生きる勇気を与える存在

九州産業大学人間科学部准教授 / ヴォレアス北海道社外取締役 / 博士(経営学) 福田拓哉

九州産業大学・人間科学部スポーツ健康科学科で准教授をしております、福田拓哉と申します。今回は自分とスポーツとの関わり、そして現在の広島のスポーツに関わることになったきっかけなどをお話させていただきます。

川淵三郎さんのお話に思わず泣いた学生時代

私は小学校4年生から高校まで野球一筋でした。現役時代は怪我との戦いでもあったので、高校卒業後はトレーナーを目指して滋賀県にキャンパスのある立命館大学に進学しました。最初は運動生理学やトレーニング科学など、スポーツサイエンス系の勉強や実験を中心に学んでいました。

ところが、転機が1998年に訪れました。ある方のお話を伺ったのです。大学でJリーグを創設された川淵三郎氏の講演会があり、面白そうだと思ってお話を聞きに行きました。「何のためにJリーグをつくったか?」「プロ野球とはどう違うか?」「スポーツ新聞に叩かれたりしても、私はスポーツで世の中を変えていきたい!」など、横浜フリューゲルス問題の渦中でありながら、理想を涙ながらに熱く語る川淵さんにやられました…。

それがきっかけで、私自身もJリーグは本当に面白い仕組みだと感じ、また「マネジメント」という分野がスポーツにあることを初めて知りました。ちょうどその頃、学内で Jクラブ「京都サンガF.C.」(当時は京都パープルサンガ)のインターンシップ制度が始まったのです。応募して育成普及部に配属され、サッカースクールの手伝いを約2週間させていただきました。

インターシップはすぐに終わったのですが、当時サンガのスクールというのは発展途上で、学生である私らでも役に立てる余地がいっぱいあったのです。もう少し関わりたいという気持ちもあって、窓口の上司の方に「他の学生たちにも声をかけるのでボランティアとして継続的に手伝いをさせてほしい」と提案しました。それが認められ、10人ぐらいのボランティア団体を結成。そこからサッカースクールのアシスタントコーチ、ホームタウン事業の企画運営、試合運営やエスコートキッズのお世話など少しずつ京都サンガでやらせてもらえる仕事の範囲が増えていきました。その後の大学院時代もずっと京都サンガのお仕事をさせていただき、面白い体験ができたと今でも感謝しています。

大学3年生の時の、一生忘れられない体験

(種子田教授とニューヨークのNFLヘッドクオーターを訪問)

実は大学3年の時に体を壊して一度死にかけているんです。原因はある病気だったのですが、その時にスポーツから生きる勇気をもらいました。サンガの皆さんが声をかけてくださったり、またTVで野球観戦していたら、清原選手が2軍から上がってきて代打でホームランを放つなどを目の当たりにして、自分もこの世界で生きていければと。

選手はどう考えても無理だったので、裏方として、「人に生きる勇気を与えるスポーツに関わりたい」と真剣に考えるようになりました。正直、当時は体がボロボロだったので就職せずに立命館の大学院へ進みました。

当時、種子田たねだ穣先生がNFL(ナショナル・フットボール・リーグ)と連携協定を結んでいたため、世界最高峰のスポーツビジネスをトップエグゼクティブをはじめ、マネジャークラスの方々から直接学べる世界で唯一の場であったこと、そして引き続き京都サンガでのボランティアが継続できることも大きな要因でした。

大家(おおか)友和(ともかず)さんとの出会い

(2004年に発足した大家友和ベースボールクラブ(草津パンサーズ))

体を治しながら勉強していたのですが、当時メジャーリーガーだった大家友和さんがオフシーズンに大学で学ばれたいと希望を持たれ、大学生として入学されてきました。その窓口が立命館大の種子田先生で、私は受講やレポートの書き方など大家さんにレクチャーさせてもらいました。大家さんは日本の野球を変えたいという熱い思いがあり、まずは中学野球から変えていこうと当時一生懸命に考えられていました。残念なことに、日本の指導者のなかには偉そうに間違ったことを平気で言って子供たちが萎縮しながら野球をしている。そういった現状を根底から変えていきたいと言われていました。

いよいよ大家さんが新しい育成のチームをつくっていくなかで、株式会社、有限会社、NPOなど、運営組織の法人格はどうしたらいいのか?手続きもどう進めていくべきか?という課題に直面しました。そこで、「それ、私にやらせてください!」と手を挙げたんです。半年間、大学院を休学してNPO法人の立ち上げの事務局長をやらせてもらいましたが。規約の整備、日々の確認、コミュニケーションなど、このときの経験は今も生きています。

そういった働きもあったからか、後に京都サンガから電話をもらい、チームで働かないかとお誘いを受けました。休学していたので大学院に通わないといけないと伝えたところ、君に任せたい仕事は大学とも関わる仕事になる、働きながら大学院に通えばよいという、これ以上ないくらいのお話をいただきました。もちろん、お受けして2004年から京都サンガと契約し、育成普及部に所属することとなったのです。

スポーツを生業にするということ

京都サンガでは、運営する「サンガカレッジ」という学生を対象とした長期インターンプロジェクトの担当となりました。今では鹿島アントラーズや東京ヴェルディが開催しているビジネスカレッジのようなものです。おそらく日本で一番最初にできたものがサンガカレッジかと思います。

その後、サンガでは3年間お世話になり、プロ野球の福岡ソフトバンクホークスへ移りました。ホークスでは、ファンクラブの仕事をさせていただき、2007年に新潟の大学へ、そして現在は九州産業大学で准教授をさせていただいてます。

私の歩み・キャリアを読んでいただいても、広島は縁もゆかりもない場所ではあります。しかし、スポーツアクティベーションひろしまの代表である神田さんとのご縁を通じてアドバイザリーボード就任のオファーを頂き、受けさせていただくこととしました。神田さん、福岡にて大変苦労されながらバスケットボールチームの社長を務められていました。周囲が無理だろうという条件を最後に乗り越えてくれたおかげで、現在も福岡にプロバスケットボールのチームがあると私は思っています。そんな方の次のチャレンジを応援したい気持ち、そしてスポーツを通じた地域活性化に「アクティベーション」という最新の概念を持ち込んだSAHのヴィジョンに少しでも役立ちたいと思っています。こうした繋がりや縁が育まれたのは全てスポーツがきっかけです。きっとこのようなことが、今後の自分の人生においても続いていくことでしょう。

広島は日本のスポーツで重要な場所

スポーツにおいて、広島という街は重要な場所です。プロ野球やJリーグでは日本一の強さを誇り、バスケットはその後に続こうとしています。広島はスポーツを通じて平和を発信することができます。これだけ強いメッセージを出せるところは広島と長崎、そして沖縄ではないかと思います。戦争と平和を考える場所ではありますが、過去の大きな困難を乗り越えて復興を成し遂げてきました。そのシンボルとして広島のスポーツはあります。

広島東洋カープのファンは、他球団のファンの方との違いを考えると面白いです。やはり地域に対する愛着はどのチームのファンよりも強いと見受けます。お金がある球団はお金があるから、経営の面をみんなで支えようということはなかなか起きません。しかしカープは、最近までは裕福な球団ではなく、本当にいろいろな苦労を重ね、地域住民が支えながら乗り越えてきました。地域とチームとの物語や歴史が特殊であるがゆえに深い絆が生まれているのではないかと思います。

2021年はオリンピック、パラリンピックという大きな国際大会があります。ラグビーのワールドカップもそうでしたが、世界中が注目します。問題は大きなスポーツイベントが終わった後、日本の地域社会が継続的に発展するために、地域のスポーツがもっともっと盛り上がらないといけません。日本のスポーツビジネスの真価が試される時期がオリンピック、パラリンピック後から始まります。これは広島という街も同じです。

大きなスポーツイベントは一生に1回あるかないかの非日常ですが、普段の地域スポーツというのは日常生活のなかにあります。大きなイベントから生まれた地域の盛り上がりをきちんと継続させないといけないですし、スポーツ自体の競技力向上に繋げないといけません。今後はプロチームに関わらせていただいているので、しっかりアリーナやスタジアムを満員にする努力をし続けたい。熱狂のスタジアム・アリーナをつくる実務と研究を今後も続けていきたいと考えています。今後も広島という特別な場所に注目していきます。


福田拓哉

Takuya Fukuda

九州産業大学人間科学部准教授

ヴォレアス北海道社外取締役

博士(経営学)

京都サンガF.C.、福岡ソフトバンクホークスマーケティングを経て2007年から研究者となる。2019年10月より故郷・北海道のプロバレーボールチームの社外取締役に就任。